こうやって言葉にして残せる機会があるので、記しておこうと思う。
今まで、どんな事が起こったか、人に話した事はなかった。
もう大分時間も経ったし、記憶が曖昧な所もあるので、戯言だと思って貰うと有難い。
あの時の数日前に震度5の地震が来てた。
5位なら、そんなに珍しくないし気にも留めてなかった。
いつもの様な日で、あの時間までは特に何も覚えてないや。
丁度、トイレに行って、仕事場に戻る時だった、地震警報がなった。
その時に立ってたのは丁度、外へ通じるドアの前だったのもあり、すぐに外に出た。
その数日前の震度5があったから、すぐにそういう行動が取れたのも確か。
外へ出た後は、確かに立ってられなかった。波が高い時の船に乗ってる感じという表現が自分の中では1番近い感覚だろうか。
平衡感覚がなくなった、近くにあるシャッターは枠から外れて暴れてる。
結構長かった、その後は皆外に出て来て避難した。
その時、携帯からの情報を見て驚いてる人達もいた。
あの状況では、世の中がどうなってるか知る由もなかった。
すぐに会社では解散し、家へ帰る。
停電の影響もあり、普段なら30分の所が4時間も掛かった。
問題は道路が走れない事、つまり段差が出来てたり橋がずれてる事。
携帯も通じないし、停電のせいで充電も出来ない。
運が良かった事はガソリンが満タン近く入ってた事だった。
車さえ動けば暖房もどうにかなるし、カーナビでTVも見れた。
家へ戻った時は、被害はほとんどなかった、食器も落ちてなく落下した物もほとんどなかった。
相変わらず電気は付かず、水は出た事が助かった。
次の日になっても状況は一緒、食べる物も多少あったが居ても立っても居られず隣の山形へ行く事にする。
何事もなく山形へ抜けられ、目に入った温泉へ行く事にした。
お風呂に入れた事と、その間にフロントの人に頼み携帯の充電をお願いした。
さっぱりした後にTVで見たのは福島原発の水蒸気爆発。
充電してもらった携帯ですぐに電話をした。
その後、食料を買いにスーパーとかに行った。
大分食料もあって、あの時は本当に助かった。
はっきりいって、宮城県では食料がほとんど手に入らなかった。
コンビニはすぐに閉鎖された模様。
そういうマニュアルがあるのか、それとも荒らされるのが嫌なのか、全てのコンビニが閉まってたからね。
感じた事は、戦時中ってこういう感じだったのかな?って事。
食料は手に入らない、身動きも取れない、いつこの状況が終わるのかも分からない、そんな状況。
全然違うかもしれないが、あの時はそう感じた。
地震が起きた日の夜、津波が来てる事は知らなかった。
恐らくTVで見てた人の方が、悲惨な状況を目の当たりにしてたと思う。
そういう状況を知ったのはTVを見られる様になった3日後位だったかな。
あの時まで、自分はサーフィンをやってた。
あの日以来、自分はサーフィンをやめた。
津波が去った後の海の状況は悲惨だった。
それが辞めた理由。